雨読 内山節「日本人はなぜキツネにだまされなくなったのか」

  雨の日、あるいは作業疲れでさぼりの日には、雨読と称して山積みの蔵書をペラペラして、息抜きをすることにしています。

内山節著 「日本人はなぜキツネにだまされなくなったのか」講談社 現代新書1918 
私の持っている版は、2007年11月20日発行の第一刷

 人がキツネにだまされる話は今では昔話にしか出てきませんが、私が小学校の低学年の頃は、父母の実家で祖父母や伯父から良く聞かされたものです。内山さんはこの本で、1965年(昭和40年)を境に聞かれなくなったこのキツネに騙されるという話について、なぜそういう話が聞かれなくなったのかを論考しつつ、キツネに騙されていた1965年以前の生活とはどのようなものであったかを考察しています。

 人々はすべてのものを自分たちの生きる地域(里)の中で組み立てなおしながら生きており、そのための技の数々を工夫し、それを代々引き継いでゆく(知性と身体性(~技)の継承がなされている生活)、また先祖が切り拓き、代々手を加え続けてきた眼前にひろがる里と、その中で代々続いてゆく持続する生活(生命性の継承がなされている生活)。

 内山さんは、このような日本の原風景といえる生活が、1965年を境に、高度経済成長によって変質し、知性が偏重される一方で、身体性と生命性が衰弱し、その結果として、「キツネに騙される」という、知性では本来把握できない、身体性・生命性の歴史を体現していた物語を語る能力を人々は失ったと考察しています。またキツネの側の要因にも言及し、環境の悪化によって、「人をだます能力を持った老狐が生きることができなくなった」のが原因だと思っている人がいると述べています。

 今から20年ほど前、奥さんの実家に引っ越してきたときに、近所の農家の年配の人たちとのあいさつに良く出てきたのが「勤め(つとめ)かね。ご苦労さまだね。」でした。その時この「勤め」ということばに感じたのは、「その仕事は自分の本当の仕事ではないよね」というニュアンスでした。この内山さんの本で私が了解したのは、1965年以前の昔ながらの持続性のある生活と、高度成長期以降の生活の両方を経験した人にとっては、昔からの生活に関係するものが本当の仕事で、お金のために外に出てゆく仕事が「勤め」であったのだという事です。

 考えてみれば、高度成長期以降の日本社会は、伝統的な里での生活を時代遅れとして否定し、人々を「勤め」に駆り出してきたわけです。人々も背に腹は代えられないので、「勤め」を務めることに意義を見出す努力を重ねてきた。そして「勤め」しか知らない世代が生まれ、キツネに騙されていた本当の仕事の世界は過去のものとなったという事でしょうか。

 百姓だった祖父母は多分この社会の変化に気が付いており、孫たちの将来について漠然とした不安を抱いていたのではないかと思います。お盆に集った孫たち相手の「このへんには尾の先が白い人をだますのがうまいキツネがおってな・・・」「・・・おっとし(恐ろしい)。」という祖父母の語りを、いまでもそのなつかしい田舎のにおいとともに思い出すことができます。

 この祖父母たちによる語りこそ、滅びゆく人をだます能力をもったキツネたち、タヌキたちが、将来新しい里を再生し復活するために打った最後の大芝居だったのかもしれないなあと思ったりします。そして彼らに騙されてみるのも悪くないなあと思っている自分がいることに、少しほっとしつつも、ChatGPTなどの人工知能にその「勤め」さえも奪われかねない人類に果たしてどのような未来が待っているのかを想像するとき、実は本当の仕事の世界に回帰する好機なのかもしれないなと思ったりするのは、少々楽天的に過ぎるのかもしれません。

続「平成狸合戦ぽんぽこ」みたいなオチになってしまいした。