雨読 石山修武(文)、中里和人(写真)「セルフビルドの世界」

 雨の日あるいはさぼりの日には、雨読と称してつんどく状態の蔵書の山をくずしています。

今日の本
石山修武(文)、中里和人(写真)「セルフビルドの世界 家やまちは自分で作る」
ちくま文庫 / 私の蔵書は2017年4月10日発行の文庫本第一刷
原著は2008年4月交通新聞社発行「セルフビルド 自分で家を建てるということ」

 「セルフビルド」というのは、言うまでもなく自分のために自分で何かを作ることを意味しています。この本で石山さんと中里さんは、家とまちの「セルフビルド」の実例を多数示し、この社会の在り方に一石を投じ、リメイクするきっかけとしたいと述べています。

 この社会というのは、勤めでお金を稼ぎそれで消費生活をするという以外の生活を想像することが多くの人にとって難しくなってしまった社会です。また、コロナ対策、少子化対策などの社会問題解決への動きがいつも後手で、しかも間違いをおかしてもそれを認めない結果、何もできずにゆでガエルになりつつある社会でもあります。

 石山さんは、我々の社会はリメイクを必要としている。その手段が「セルフビルド」。自分のモノ、自分たちのモノは自分たちで創ろうとするその意志のデザインこそが、最初の一歩を踏み出すのに必要なのだ、と序文を結んでいます。

 思い出してみると、私が子供のころ(~1965年以前)身の回りは手作りで満ちていました。家は戦後焼け跡に建った掘っ立て小屋に毛が生えたもので、台風の時には、板切れ、古カーペットなどで窓や戸を覆い釘打ちしていました。雨漏りも良くしましたが、そのたびごとに屋根に上がり補修していました(今の家も実は大して変わりませんが)。私の着る服にしても母の裁縫によるものでした。穴が開けばつぎをあてる。貧乏だったといえばそうかもしれませんが、自分で何とかするのがあたりまえで、それなりの工夫と手間をかければ、わざわざお金を出さなくても、何とかすることができたと言うべきかもしれません。政治にしても、ストライキがあったり、デモがあったり、投票率も今日の様に低くはなく、自分の国の政治も自分あるいは自分たちで何とかしようという気概は存在していたと思います。

 時代とともに、安い工業製品が出回り、作るより買った方が安いということになり、サラリーマン化も進んで、必要なものはお金で調達するという消費者としての生活が幅を利かせるようになり今日に至ります。今や消費者マインドは血肉と化しており、「コスパ」の良しあしは主要な判断基準の一つになっています。国内で農産物を作るより輸入したほうが「コスパ」が良いという国レベルの判断の結果、今や食糧自給率は40%を切り、国民の生命を守るという国としての責務すら満足に果たせなくなってしまっていることを、コロナ禍とロシアのウクライナ侵攻に伴う国際政情不安は明らかにしたのではないでしょうか。

 結局いろんなところでなされた安易な「コスパ」判断が、今日の日本の凋落を招いたのではないか。日本の高度成長を支えたのは、実はそれ以前に国民が持っていた自分たちで何とかするという「セルフビルド」の能力であったのではないか。そう考えると日本再生には「セルフビルド」の精神と能力を取り戻すことが必要だ。という石山さんたちの主張には一理も二理もあるという気がしてきます。

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巣立ち直後のムクドリの子、屋根の上。このあたりも早い梅雨入りとのこと。

屋根の上のムクドリの子